渡良瀬川の橋・通洞大橋
橋 長257m
幅 員:8.3m
完 成:1980年
位 置:下流から○○Km
路 線:○○
見た目:きれい
 すっかり化粧直しされた真っ赤なアーチの通洞大橋が足尾町の中心部、銅山観光のそばに架かっている。昭和五十五年(一九八〇年)に完成した長さ二百五十七m、巾八・三mの大きな橋だ。
 銅山観光は昭和四十八年の閉山後「日本一の規模を誇る通洞坑口や坑内など、他地域に類をみない観光資源をいかそう」と昭和五十一年から総工費三億七千万円の巨費を投じて工事が進められ、昭和五十五年四月二十三日に華やかにオープン。足尾銅山の三百六十年の歴史がよみがえった。江戸、明治、大正、昭和の坑夫らの哀愁を帯びた生活が、坑内に浮かびあがる。聞くところによると、総延長1,000キロm以上の大小の坑道がのびている、という。
 コースには資料館もあるが、明治中期の坑夫の生活については、夏目漱石の小説「坑夫」に描かれている。そこには、想像もおよばない悲惨な有り様がみてとれる。
 当時の坑夫は前科者と呼ばれる人も多くいた。隠れ家として入山した人もいる。貧農の次男や三男が職を求めてヤマに入るケースも多かった。坑夫は入山して三ヶ月は無償で働いた。その後も、やれ道具代、風呂代、など諸経費を飯場頭から差し引かれ、手元に残るのはわずかであった。金が足りなければ、飯場頭から高利で金を借りた。
 「妻子あるものは妻も選鉱場などの雑役に働かせ、男子は小学校を卒業すると、山で働かせ収入をはかった。女子は桐生や足利へ女工に、あるいは商家の子守などの奉公に出した」という。
 狭く暗い、しかも湿度の高い穴の中で、せっとの音で調子を取りながら、唄った唄が「せっと節」だ。「坑夫さんとは名はよいけれど、聞けば奥山小屋住まい」。彼等こそ、日本の近代化を支えたと言えよう。
通洞大橋関係
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