渡良瀬川の橋・新渡良瀬橋
橋 長50m
幅 員:4.6m
完 成:○○年
位 置:下流から○○Km
路 線:○○
見た目:きれい
 「ハァー わたしゃ足尾の ヨーエー 坑夫の女房 坑内恐がる コリャエー 子は生まぬ」。「ハァー 浮世苦労は ヨーエー 渡良瀬川の水に流して コリャエー 共稼ぎ」。ここ足尾町で明治の頃から伝承されている郷土民謡だ。坑夫たちの心意気である。力強く生きてきた足跡がにじみ出る。と同時に哀愁がただよう。公害の原点と呼ばれながらも、渡良瀬川の渓谷に生きてきた人達の生活が浮かぶ。日本の発展の光と影。足尾町はそんな姿をみせながら、再生に向けて動き出した。間藤駅から北部へ足を延ばせば日本初の水力発電所跡や日本のグランドキャニオン、前回紹介した古河橋など観光としての素材は充分ある。この下流には、福長屋(ふくながや)と呼ばれた南橋。江戸時代の南橋は銅鉱の発見された本山への通路であった。現在の「本山小学校」の前身となる「私立足尾銅山尋常小学校」をこの地に創立し、社宅を増設すると地名を「福長屋」とした。大正五年(一九一六年)に製錬所への鉄道「足尾線」が敷かれほぼ最盛期の社宅形成となった。昭和二十一年(一九四六年)に地名を現在の「南橋(なんきょう)」に改められ、社宅は足尾町に委譲され新たな「南橋橋」が設けられた。深い崖を刻んだ川と急峻な地形であったため、足尾町に数多くの橋が架設され、質量、技工ともに先進地であった。この渡良瀬橋(写真)は鉄橋といえど、主構造以外の横桁、床版、高欄などは木製であったため、昭和二年に木製部分を鉄製に改修し、さらに昭和十年(一九三五年)に現在のコンクリートアーチ橋(橋長五二・五m、幅五・四m)に大改修した。2度にわたる改修のため、最初の橋の架設年次や設計者、詳細図面が不明。 現在は歩行者専用橋として利用され、隣接した上流側に道路橋、「新渡良瀬橋」が平成九年に架設された。
新渡良瀬橋関係
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