太田から北西13キロ大間々扇状地の要に広がる丘陵、一番高いのが鹿田山(232m)である。
右の稲荷山と琴平山(山寺山)の切り通しの関東ローム層の中から、納豆の行商をしながら考古学を研究していた相沢忠洋氏が一片の石器を発見したのは昭和21年秋のこと。「日本には旧石器文化はない」という当時の考古学界の常識を打ち破り、日本の歴史を変えたともいわれた大発見は、旧石器文化研究のスタートとなり、その後の全国各地の遺跡の発見、調査の道標となったのである。
人類文化がどこまで遡れるのか、順調だった研究が、先ごろの宮城県上高森遺跡の石器ねつ造事件により、逆戻りしたのはまことに遺憾である。扇状地北部の笠懸野一帯は不毛の地であったが、江戸初期、代官岡上景能が渡良瀬川の水を引き、大原新田など二十九の新田村を開発した。今もなお岡上用水は地域を潤している。 |
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